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喪に服します

オリックスは何とかソフトバンクの優勝を阻止するサヨナラ勝利で望みをつなぎました。

大谷翔平選手はあわやノーヒットノーランか!?という回答で15勝目を挙げ、MVPに望みをつなぎました。

…んなこたぁどーでもいーじゃん!!

アントニオ猪木が亡くなりました(T_T)。

自身が立ち上げた新日本プロレスが創立50周年の節目の年に逝去されました。しかもこの日はロンドン大会です。

現在猪木は新日とは関係がなくなっているとはいえ、弟子達に看取られることもなく旅立ってしまいました。

この数年は難病全身性アミロイドーシスに冒され、あの猪木が病人そのものになっていました。見るたびに悲しくなり、「あぁいつかまたリングに立ってダーッ!やって欲しいなぁ」と願っていましたが、かなわぬ夢となってしまいました。

あそこまで痩せこけて元の体型に戻って元気に長生きできた人はいるんでしょうかね?JTは記憶にありませんが、猪木ならきっと復活できるんじゃないかと思っていました。

少しずつ顔色がよくなって、声も出るようになって、少しふっくらしてきたので、よし!と思っていたんですが…。

猪木は少年JTのヒーローでした。猪木が言うことは全て正しい、最後は絶対相手をやっつけてくれる、絶対負けない、そう信じていました。いわゆる猪木信者でした。

基本テレビ観戦ファンでしたが、確か初めて生観戦で行った1982年4月1日のMSGシリーズ決勝戦。蔵前国技館へ参戦しましたが…何と猪木は負傷欠場(>_<)。3位のキラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントに挑み善戦したものの敗戦。やっぱり猪木じゃないと…。猪木なら怪我していても勝っただろうに…とそう思っていました。

ホーガンに敗れ「舌出し失神事件」の第1回IWGP戦はテレビ観戦でしたが、翌年のリベンジ戦は蔵前国技館に応援に行きました。あの長州乱入事件で大荒れになった大会です。しかもその瞬間は升席最後列だと観客が総立ちになっていたので…何も見えず(>_<)。モニター画面もなければもちろんネットもない時代。翌日の新聞を見るまで何があったか分からない…そういう時代でしたね(^_^;)。

海賊ガスパーにやられてヘロヘロな猪木を後楽園ホールの駐車場で出待ちして、写真を撮ってからタッチしようとしたところ、若手時代の飯塚にバックキックを食らったこともありました(2019年2月25日ブログ参照)。

引退試合はもちろん観戦しました。7万人分の1人でした。

INOKIボンバイエは大阪ドームも神戸ワールド記念ホールもはせ参じました。神戸では最後グダグダな締めでファンがリングに雪崩込んで闘魂ビンタの乱れ打ち状態でしたが…行きませんでした(*_*)。

その頃はPRIDEに肩入れしたり、新日の大会に口を出して混乱させたりと、世間同様猪木離れになったりもしましたが、それでもやっぱりヒーローでしたね。

政治の世界でもイラクへ行ったり北朝鮮に行ったり…よく分かりませんが(^^ゞ、活躍されました。

飲み会の締めを任された際は「1,2,3ダーッ!」で締めさせてもらいました。

まだまだ語れますが…またいつか。

けどこのタイミングに亡くなれば…10.10両国大会で追悼の準備期間ができそうで、そこまで配慮したのでしょうか(T_T)。

できればテレ朝ゴールデンで追悼特番で数々の名試合を放映して欲しいです。1週間ぐらい…。

享年79年。ありがとうございました。

ご冥福お祈り申し上げますm(_ _)m。


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